昔の記憶が無い、思い出せないという人へ
~自分を「調べる」という意味について~
内観は記憶を頼りにスタートしていきます。研修の初めのうちは自分の記憶にあるものの中から三項目を思い出す作業を繰り返す中で、様々な角度からその思い出を検証していき、その結果、深い自己洞察に運ばれていきます。
しかし中には過去の記憶が出てこない人がいます。幼少期から中学校くらいまでの母に対する記憶を辿っていく中で、してもらった記憶や迷惑をかけた記憶が全く出てこないわけです。
つまり、してもらったことは何ですか?迷惑をかけたことは何ですか?と改めて問われると、見たことが無い物事についてのイメージが出てこないわけですね。だから思い出せない。
もっと言えば普段そういった視点から物事を見たことが無いから「記憶にない」ということになるのです。が、それでは内観は進みません。

実は内観では「思い出す」ではなく「調べる」という作業をします。分からないことは辞典やグーグルで調べますよね?この調べるという作業は疑問に感じることから始まることが多いものです。
自分の記憶には無いこと、見たことが無いことでも、当時の生活を振り返って疑問に思うことはありませんか?

例えば「世話になっているはずなのになぜ記憶にないんだろう?一つくらいはありそうなのに」という疑問です 。それから「当たり前のように三食食べていたけど、その食事は誰が作っていたんだろう?待てよ、使った食器は自分で洗ったこともないぞ?」「自分の着ていた洋服の洗濯は誰がしていたんだろう?」という疑問も出てくるわけです。
そうなるとその疑問に対して証拠を集めることをします。証拠を集めるとは「父は食事を作る人ではない。自分も作っていない。兄弟でもない。だとしたら間違いなく母が作っていた」ということになります。「洋服を脱いで洗濯籠に入れた。その洋服はいつの間にか洗濯されて綺麗に畳まれてタンスにしまってあったから、その洋服を着て学校に行った」ということは誰かが洗って、干して、畳んで、タンスに入れておいてくれたわけです。それは誰がどのくらい時間を浪費して自分のためにやっていたのか。このように自分に起こっていた事実 を丁寧に調べていくのです。「思い出す」という作業から段々と「調べる」という作業に変わっていくわけです。自分が見たこともない出来事でも「調べる」と、そこにあった事実が見えてくることがあるのです。

「思い出す」というのは自分サイドから認識している記憶に過ぎません。「調べる」というのは誰から見ても同じ一つの事実に辿り着くわけです。「~だったんじゃないかなぁ」と自分本位の想像に過ぎなかったものが、調べることで事実を浮き彫りにしていくプロセスが内観ではとても重要になります。
つまり、内観で必要なのは過去の記憶ではなく、事実を事実として捉えようとする気持ちや考える力が重要なのです。
「具体的な事実を調べてください」というのはそういう意味なのであります。

